晴れ、ときどき京都

3年間の京都暮らしから地元に帰ってきました。

猫に恋して…キャットアパートメントコーヒー

まだ地元にいた頃、ときおり会う、やたらと人懐っこい猫がいた。基本的に野良には避けられる私なのに、しっぽ上げて歓迎体勢全開で寄ってくるのだ。私がメロメロにならないわけがない。ちょっと生意気そうで、いたずらっ子。めちゃめちゃあまえんぼう。可愛くて可愛くて、猫のやわらかな毛皮に触れるたびにオキシトシン(幸せホルモン)ただ漏れである。

世間では野良猫を拾ってくる人は多いらしい。あの子をうちの子にしたいなぁ。家にいて、私を迎えてくれたらどんなに楽しいだろう。当時私はショパンマズルカを弾いていて、その猫と出会う場所もピアノ教室の前だったので、その子の名前はマズルカちゃんに決めていた。もちろん、飼える条件がかなうはずもないので、すべては妄想だったが。

マズルカちゃんとの逢瀬は何ヶ月か続いた。そして、あるときからふっつりと会えなくなった。そうなる予感はなんとなくあった。

そんなマズルカちゃん(仮名)との甘酸っぱい(?)思い出をひきずりながら、京都の猫カフェに行ってみました。

https://www.instagram.com/p/BGIwAI2qEmS/

Instagram

町屋なお店によくあるように、長い路地が素敵……。石畳、ひかえめでいて、可愛らしい季節のお花。もうこの雰囲気だけで胸いっぱいである。1階がふつうのカフェで2階が猫カフェ。2階は時間制の猫カフェで猫ちゃんに触れるけども、1階だと時間制限がない代わりに猫には触れない。ただし、ガラス越しに猫が見られることがあるかもしれない……というシステム。

店内はとにかく清潔で、匂いもない。居心地のいい和の調度品。人慣れしていて、可愛らしい猫ちゃんたち。一応抱っこは禁止なのですけど、自分からひざにのっかってきてくれた子もいたよ!

……とまぁ、完璧な猫カフェ体験となったのですが、だからといってマズルカちゃん(仮名)との思い出を凌駕しえるかというと、そんなことはないのであった。なぜか。お金で買った猫との時間だからか(あぁ、みもふたもない…)。

昨日も試してガッテンで、オキシトシンの効果(愛する人やペットとハグしたりするとストレスが激減するよ、効果絶大だよ)を語っていたけれど、それってさ、要は麻薬みたいなものですよね、と思ったりもしたのだった。

あれば幸せ。なくなったら、幸せだったぶんだけ悲しい(ペットロスとかそういうことじゃないですか)。でも、なにもないよりあった方がずっと幸せ(あ、もちろん本当の麻薬はダメですよ…)。

マズルカちゃん(仮名)、今もどこかで元気で幸せに暮らしてるといいなぁ。

https://www.instagram.com/p/BGIzSytqEsa/

Instagram

Cat Apartment Coffee KYOTO | 築100年の京町家猫カフェ「キャットアパートメントコーヒー」

カフェミープル…「コンコルディアがしたいです……」

オサレカフェ日記が始まるのか……と、思いきや、しょっぱなはカフェミープルなのであった。いや、カフェミープルがオサレではないとは言ってないですけども……。

4月14日に熊本で前震(という名の本震?)があり、4月16日に再び熊本で、それよりも大きな被害をもたらすことになった本震があった。京都赴任で浮ついていた気持ちは一瞬でふっとんだ。家族や友人知人が気がかりなのはむろんのこと、率直にいってなんだかとても後ろめたかったのである。

何十年と熊本で暮らしていて、こんな肝心なときに熊本にいない自分。安穏とごはん食べてお風呂入ってテレビ見てる。いたからといってなにができたわけでもないが、重要なイベントに参加できなかったさみしさ(…などと言ったら怒られるかもしれないけども、確かにそんな気持ちはあります…)。交通手段も絶たれてしまった故郷への道は、物理的にも心情的にも遠く感じられた。

そんな感じで胸に鉛をつっかえたような状態で過ごしていたのだが、不意に(突然である…)ボードゲームがしたくなった。みんな大変なのに、こんな時に?と思いながら、かねてから行きたいと思っていたカフェミープルに行くことにしたのである。 

軽くコロレットや3Dブロックスをしたあと、「…コンコルディアがしたいです……」と言ったらちょっとどよめかれた。なんだ、イケる口じゃないですか、というアレでしょう……。

初心者のフリをするぞー!と思ってはいても、それで軽アクションゲーなど勧められたらたまったものではないので、さっさと好みを白状した方がラクになれるのであった。

数時間遊んで、その間だけ胸につかえている鉛のことは、少しだけ忘れていた。

悲しいことが起こったのに、今そんなことをしているのは不謹慎だ、という考え方がある。実際そういう場面は多々あると思う。

かといって、世に起こる悲劇の多くを我がことのように思い、共感していたら心が耐えられない。「他人事」で処理できる心のもちようも、それはそれで人間が生きていくには必要なものなのだ。もちろんできる範囲で助けられることがあるのならした方がいいには違いないけども。

余談だけども、「世に起こる悲劇を我がことのように思う」共感能力というか感受性は大人よりも子供の方がはるかに強いと思うので、○月○日にまた大地震が……系のデマは本当に許せないと思ったりする(私のなかの子供の自分がおびえている…)。